出町四橋ものがたり





安永7年(江戸中期) 
2橋
今出川口橋(出町橋)と葵橋
当時は板を渡した仮橋






大正元年地図 
2橋
長大な出町橋と葵橋






昭和2年地図
2橋
出町橋が分割されて、葵橋
(現・出町橋)と河合橋とに
なっている
本来の葵橋は廃止された。


加茂川・高野川合流点の周辺には次の四つの橋が架
かっています。
 加茂大橋(鴨川) 今出川通の橋
 出町橋(加茂川) 出町(桝形通)と三角州を結ぶ橋
 河合橋(高野川) 三角州と出町柳(田中)を結ぶ橋
 葵橋(加茂川)  河原町通(下鴨本通)の橋
 しかし、この4つの橋が揃ったのは昭和31年で、それ
ほど古いことではありません。これらの橋について、特
に近代に入ってから、様々な変遷がありました。その
歴史を紹介します。


今出川口橋
 現在、出町(桝形通)と出町柳(田中)の間は、出町橋
と河合橋の二つの橋で結ばれています。しかし、明治
以前には、この辺りでは既に加茂川と高野川が合流し
ており、1つの橋が両岸を結んでいました。
 といっても、江戸時代ここに架かっていた橋は、本格
的な橋ではなく、中洲に板を渡して作った仮橋でした
(幅は2メートル半ほど)。この橋は、今出川口橋と呼ば
れていました。
 仮橋と言うと、正式な通路ではないように思うかもしれ
ませんが、当時の鴨川では、本格的な橋は三条大橋と
五条大橋だけで、四条橋も幕末近くまで仮橋でした。
さらに、北の方では橋そのものが少なく、数少ない橋は
重要な交通路となっていました。
 今出川口橋は、若狭街道(いわゆる鯖街道)の終着点
に架かっており、洛北の人々がその産物を都に売りに
行き、必要な物資や糞尿(肥料)を都から運ぶために使
う、大変重要な橋でした。


長大だった出町橋
 明治時代に入っても、出町の北のターミナルとしての
役割は変わらず、ますます繁盛しました。今出川口にも、
本格的な木造の橋がつくられ、出町橋と名づけられまし
た。
 この時はまだ三角州が短かったので、出町橋は、加茂
川と高野川をまたいで、出町と出町柳を一気に繋ぐ長大
な橋でした。木造の細い橋でありながら、今の加茂大橋
よりも長く、両岸を結ぶ景色は壮観だったと思われます。
 この長大な出町橋は、大正7年に2橋に分割されます。


出町橋の分割と、葵橋の廃止
 少し上流の葵橋も江戸時代からある橋です。出町と
下鴨村を結び、鞍馬街道(今の下鴨中通)の入口となっ
ていました。 この橋も、江戸時代には仮橋だったの
ですが、明治時代に本格的な橋が造られました。
 この葵橋が大正7年9月に水害で半壊します。ところ
が、この時期には前記の出町橋の分割工事が進んで
おり、分割した新しい出町橋と平行にかかる葵橋は
再建しないことが決まりました。この際、反対運動が
あったらしく、分割した出町橋を「葵橋」に名称変更して
その名前だけを残すことが決まりました。ただし、現在
の出町でこのことを覚えている方は少なく、出町でこの
名称がどこまで使われたのか良く分かりません。





昭和9年地図 
3橋
加茂大橋建設された
加茂大橋の建設
 大正時代には京都市の都市改造が進められます。
本来の今出川通は、河原町と新町の間の短い小路に
過ぎませんでしたが、大正10年前後に拡張され西に延
長されました。しかし、東端は河原町通で旧伏見宮邸に
突き当たって終わっていました(当時の河原町今出川の
交差点はT字路でした)。
 昭和に入って、今出川通の東への延長工事が始まり
ます。昭和6年に伏見宮邸の北半分が撤去され、鴨川
に加茂大橋が完成して、今出川通の東西貫通が実現し
ました。加茂大橋は、武田五一のデザインで、近代的な
コンクリート橋でありながら、欄干には石灯篭が並ぶ独
特の姿に作られました。


大水害による橋の流失
 昭和10年の大水害では、鴨川の橋の大半が損壊し
ます。このとき無事だったのは、コンクリート造りの北大
路橋、加茂大橋、丸太町橋など五橋と言われています。
木造だった出町橋(当時は葵橋)も河合橋も流されまし
た。
 現在の河合橋は、この後の昭和13年に作られたもの
で、欄干のデザインは加茂大橋に倣っています。出町橋
(葵橋)は、この時は木橋で再建され、昭和29年にコン
クリート橋になりました。




現在の出町四橋
新葵橋の建設
 戦後、下鴨本通が建設され、河原町通に繋ぐために
昭和31年に市電専用の橋が作られ、翌昭和35年に
は道路橋になりました。
 この橋は、かつての葵橋の位置に当たり、ここに葵橋
が約40年ぶりに復活しました。当時、この葵橋は新葵
橋とも呼ばれ、その名前は今もバス停に残っています。
 葵橋の再建に伴い、出町橋も元の名に復し(おそら
く昭和29年の再建時)、現在の四橋が揃うことになりま
した。


 現在の出町橋・河合橋は、幹線道路としての機能は加
茂大橋に譲りましたが、出町柳と出町とを結ぶ生活道路
として重要な役割を果たしています。また、三角州一帯
の鴨川公園は、川、橋、森、山の風景が一体となった風
光明媚な地として知られ、出町の四橋はその景観の重
要な要素となっています。




【史料】日出新聞 大正七年十月十五日 より

葵橋廢止 新出町橋を葵橋と改名せん

下鴨の葵橋は先般の水害にて半墜落したるが府は其下流に出町橋の架換工事を
行ひ目下完全なる新橋に既に殆んど出來上り橋より下鴨に通ずる新道路も亦近日
竣成すべきにつき下鴨への通路は何等差支なきに至るべきを以て葵橋は再び架換
をなさずに是れを廢止することに決し其代りとして出町橋を葵橋と命名し永久に葵の
名所を保存せんとの意向なりと右につき下鴨町にては葵橋の廃止は一名橋を失ふ
ものなりとの理由にて府當局に陳情すべく市村市會議員は町民を代表して十四日
午後三時府廳に上田内務部長を訪うて陳情する所ありしが部長は府は決して葵橋
を廢止するにあらず、新たに架設の出町橋に以て之に代ふるものなりとの説明をな
したるより市村議員も其の意に諒として下鴨民を説得すべしとて引き取りたり、尚ほ
葵橋の古用材は上賀茂村にて拂下げを出願し居れば多分拂下ぐるに至るべく府とし
ては葵橋の廢止は完全なる出町新橋の架設と共に下鴨への通行は從來よりも一層
利便を加ふることヽなるを以て此の場合僅一二町を距てヽ殊更に府費を以て兩橋を
經營するの必要なく若し現在の葵橋を是非存續されたしとならば市が市費を以て之
を保存するに於ては府としては何等異議は唱へざるの意向なりと


 
出町三角州のイラストマップ
山と森と川
出町の橋
出町三角州の見どころ
 (1)剣先とその周辺
 (2)出町サイド(加茂川西岸)
 (3)出町柳サイド(高野川東岸)