出町こだわりガイド
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妙音弁財天の由来

 出町妙音弁財天のご本尊は、鎌倉時代(約700年前)に西園寺家のお姫様(西園寺寧子 広
義門院)が後伏見天皇に嫁いだ際に、持参した「弁才天画像」です。
 この画像は、西園寺寧子から、その実子の光厳天皇、孫の崇光天皇を経て、伏見宮家に
代々伝えられました。江戸時代の伏見宮家は出町にありましたので、「弁才天画像」もその屋
敷内にまつられてきました。
 画像は、明治時代に一旦は東京に移されましたが、出町住民の請願を受けて京都に戻さ
れ、宮家の跡地に新たにお堂を作ってまつられました。


六角堂

 妙音弁財天の本堂は、小さな六角のお堂です。この建物は、弁才天画像が東京から出町に
戻された明治34年に建てられたものです。楼閣風に屋根が二層になり、全体が白壁で覆われ
ており、夜はライトアップされて、美しい姿が浮かびあがります。
 内部には、御本尊のお厨子と、その前には白木造りの弁才天像(お前立ち)が座られていま
す。また、天井には龍の絵が描かれています。
 この六角堂を、歳の数だけ回りながらおまいりすると、願いがかなうと言われています。

  


100年ぶりに姿を現した弁才天画像

 平成15年、妙音弁財天のご本尊である「弁才天画像」が、明治時代以来100年ぶりにご開帳
されました。岩の上に座り琵琶を奏でる、美しい弁才天の姿を描いた画像で、保存状態の良い
ものです。絵の裏には、伏見宮家の祖である崇光天皇の書付があり、伝承の通り、鎌倉時代
以来の伏見宮家に伝えられてきた画像であることが確かめられました。
 現在「弁才天画像」は、相国寺にある「承天閣美術館」で保管されていますが、妙音弁財天
の春季大祭(4月)とお火焚祭(11月)の時には、出町で御開帳されます。


24代続いた伏見宮家

 妙音弁財天のご本尊「弁才天画像」は、伏見宮家に伝えられたものです。
 宮家とは、天皇家の血統が絶えた際に、後を継ぐために設置されている、いわば分家です。
伏見宮家は、最も長く続いた宮家で、南北朝時代に始まり、第2次世界大戦後に民間に下るま
で、500年24代にわたって続きました。
 崇光天皇(南北朝時代)の皇子である栄仁親王の系統は、本来天皇になる血筋だったので
すが、種々の事件に巻き込まれて天皇家を継げませんでした。そこで、宮家(世襲親王家)とし
て待遇することになったものです。崇光天皇は、天皇家に伝わる琵琶の技と、その守り神であ
る「弁才天画像」を、本流の証として栄仁親王に伝授しました。六角堂の正面には、伏見宮家
22代貞愛親王(さだなるしんのう 明治時代の陸軍大将)の筆による「妙音天」の額がかかって
います。

  


西園寺家

 西園寺家は、藤原氏の一流で、大臣を出すことのできる名家です。鎌倉時代に太政大臣とな
った西園寺公経の時には、たいへん勢力があり北山に西園寺という立派なお寺を建てました
が、これは後に足利義満に召し上げられて金閣寺になりました。
 西園寺家は、琵琶の技を伝える家であり、伏見宮家の琵琶も西園寺家の教えを受けたもの
です。この西園寺家にあった「弁才天画像」を西園寺寧子が皇室に持参し、それが伏見宮家
に伝えられて、今の出町妙音弁財天となりました。
 なお、西園寺家から出た有名人に、明治時代の総理大臣西園寺公望がいます。しかし、養
子だったため、琵琶はうまくなかったとのことです。


妙音弁財天と白雲神社は姉妹

 西園寺家では、琵琶を奏でる弁才天を守り神とし、屋敷内に"妙音堂"を作って祀っていまし
た。この妙音堂は「白雲神社」と名前を変えて、京都御苑の中の西園寺家の屋敷跡に残って
います。秘仏だったご本尊が最近調査され、鎌倉時代に作られた木造の弁財天であることが
分かり、2003年に重要文化財に指定されました。
 一方、出町妙音弁財天は、西園寺家に倣って伏見宮家の中に作られた"妙音堂"の後身で
す。その本尊である「弁才天画像」は、西園寺家の"妙音堂"にあった画像を西園寺寧子が持
参したと伝えられますから、すなわち、2つの弁才天像はもとは同じお堂にあったのです。



   京都御所の白雲神社





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