幸神社の創建
幸神社は、平安遷都の2年後の延暦15年(796)に、創建されたといわれています。別の説に
よると、平安中期の天慶二年(939)に勧請されたとも言われ、はっきりしたことは分かっていま せん。しかし、藤原定家の日記である「明月記」に出てきますので、鎌倉時代の初めには存在 したことが確認でき、大変古い神社であることは間違いありません
出雲路の道祖神の娘
「源平盛衰記」という室町時代ごろに成立した書物に、出雲路の道祖神(幸神社)が出てきま
す。 これは"奥州名取郡の笠島の道祖神"(今の宮城県名取市の道祖神社)の説明の中に出 てくるものです。「源平盛衰記」によると、笠島の道祖神は"出雲路の道祖神の娘"だが、商人 と駆け落ちしたため勘当され、陸奥(東北地方)に流れてきて、ここで神としてまつられたもの だというのです。不思議な伝説です。
猿田彦の御神石 (出町七不思議の1つ)
幸神社の右奥に、小さな鳥居があり、大きな石がまつられています。鳥居の前には、「大日
本最初御降臨旧跡地 猿田彦御神石」と書かれた石碑が立っています。日本に猿田彦神が出 現した、最初の場所がここだという意味です。
この御神石(石神)は、縁結びの願いをかなえてくれる石として、信仰されています。戦国時
代ごろに作られた狂言「石神」があることから、幸神社の御神石は、戦国時代当時にはかなり 有名だったことが分かります。
狂言「石神」
狂言「石神」は、幸神社を舞台とした話です。
遊んでばかりの夫に愛想をつかした妻が、仲人に離婚を伝えに来ます。離婚をあきらめさせ
ようとした仲人は、出雲路の夜叉神(今の幸神社)に行って、石神で占うように勧めます。先回 りし夫が石神に化けて座っていると、妻がやってきて夫の石神を持ち上げようとします。妻が 「上れば里に帰る」と言えば夫は動かず、「上れば夫に添う」というと立ち上がり、何とか離婚を あきらめまさせます。しかし、妻が奉納する神楽に浮かれて正体がばれてしまいます。
石の代わりに夫が座っているという設定は無理がありますが、そこが狂言らしいところ。縁結
びの神である幸神社を、離婚の占いに使っているのも、パロディと思われます。
出雲路(いずもじ)とは
説明の中に、何度も“出雲路”という地名が出てきましたが、これはこの地域の古い地名で
す。
平安京できる以前、出町から北の広い地域には、出雲氏がすんでおり、"出雲郷"と呼ばれ
ていました。出雲氏は、出雲(今の島根県)の出身で、出雲大社に関係する一族と思われま す。出雲郷には、出雲寺、出雲高野神社、出雲井於神社などの、お寺や神社がありました。
出雲氏もそのお寺や神社も、平安時代には衰退しましたが、出町一帯には"出雲路"の地名
が残りました。今も、出町の少し北に出雲路の大字があり、鞍馬口通の加茂川の橋が出雲路 橋と呼ばれています。
出雲の阿国は、幸神社の巫女だった?
歌舞伎の元祖として知られる出雲の阿国は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、全
国各地で興業を行なって人気を博した女性です。
昭和戦後の歴史学者・吉川清氏は、仏教の宗派の一つである時宗の研究で知られた方で
す。吉川氏は、残された絵の分析から、阿国の踊りは時宗の流れを汲んでいると考えました。 さらに、京都付近で、時宗の芸能民が住み着き、"出雲"の地名を持つ地域として、"出雲路" に目を付けられました。吉川氏は、阿国は出雲路の時宗の鉦たたきの娘で、幸神社の巫女で はないかと考えられました。ただし、残念ながら現在では、出雲の阿国は、自称していた通り、 出雲国(島根県)出身とする説が主流です。 |