かつて河原町通に「白梅図子」(しらうめずし)というバス停があったことを、覚えてお
られるでしょうか。この白梅図子というのは、京極小学校体育館の斜め前から、河原町
に抜ける細い短い通りの名前です。また、江戸時代には、この一帯にあった花街を白
梅図子と呼びました。
花街があったのは、白梅図子から中筋通にかけて(新夷町)の地域です。江戸中期
の安永4年(1775年)、二条城の北側にあった夷町が立ちのきに会って、この場所に町
ごと移転して来ました。この際、費用を捻出するために「煮売茶屋」を始めたのが繁盛
して、後に遊郭になりました。 明治3年には遊女屋として公認され、当時16の店があり
ました。
小学校が、立本寺前町から現在地に移ってきたのは、その翌々年の明治5年です。
ただし、遊郭は東京遷都のあおりで急速にさびれ、明治7年には営業を差し止められま
した。今は全く名残がありません。
「白梅図子」の名は、白梅という絶世の美女がいたからそう呼ばれるようになった、と
伝えられます。また、下級の遊郭で、お客がシラミをもらってくるので、「虱の図子」と呼
ばれたのがはじめとも言われます。
2004年12月
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