阿弥陀寺の墓地には、織田信長と織田信忠の、二つのお墓が並んでいます(信忠は
前々回に紹介した信長の長男です)。しかし、良く見ると信長の墓の右の一段下ったと
ころに、もう1つお墓があります。これは、信長の三男・織田信孝のお墓です。
本能寺の変の後、織田家では、信長と信忠が亡くなったため、新しい当主を決める
会議が開かれました(清洲会議)。この時、柴田勝家はこの信孝を推薦しました。信孝
は武将としての評価が高く、山崎の合戦でも、秀吉に合流して総大将を勤めたからで
す。しかし新しい当主は、羽柴秀吉が推薦した三法師(亡くなった信忠の子 三才)に
決まりました。
その後、柴田勝家と秀吉との対立は深まり、勝家は賤ヶ岳の合戦で秀吉に敗れて自
刃します。そして、勝家と組んでいた信孝も、捕らえられて、知多半島の大御堂寺で切
腹させられました。二十六才でした。
阿弥陀寺は、秀吉から信長の遺骨を渡すように要求されたが拒否し、豊臣政権に批
判的な姿勢を貫いたと伝えられています。そのような背景があって、秀吉に敗れて亡く
なった信孝のお墓を作り、供養したものと思われます。
2007年10月
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