大原古文書研究会は、大原に残されている古文書を読み解き、そこから地域の歴史
を研究するグループです。今回、大原古文書研究会では、江戸時代の今出川口仮橋
(今の出町橋)に関する15通の文書を解読されました。その報告書「今出川口仮橋一
件・古文書集」を、京極歴史探偵団にいただきましたので、そこで明らかにされた今出
川口仮橋の歴史を紹介します。
出町(今出川口)と出町柳(柳ヶ辻)の間は、現在は出町橋と河合橋の2つの橋で結
ばれていますが、明治以前は、この位置では既に川が1つになっていて、両岸が1つの
橋で結ばれていました。これが今出川口仮橋(後に出町橋)です。ただし、江戸時代の
橋は本格的な橋ではなく、木で簡単な橋げたを組んで、板を5枚並べて渡して作った仮
橋でした(幅は約2メートル半)。このような橋ですから、毎年、大水で板が流され、その
度に再建されました。
この橋は、若狭街道(いわゆる鯖街道)の終着点に架かり、洛北の人々がその産物
を都に売りに行き、必要な物資や糞尿(肥料)を都から運ぶために使う、大変重要な橋
でした。以前は、若狭街道沿いの十二ヶ村が共同で維持をしていたのですが、後に
は、橋の西岸の田中村(今の左京区田中)に管理をまかせ、十二ヶ村は田中村に通行
料を払う形になりました(十二ヶ村は、一乗寺、修学院、松ヶ崎、高野、花園、長谷、
中、八瀬、大原、小出石、伊香立、途中です)。
今回解読された15通の古文書は、江戸後期の、天明から寛政時代の約10年間の今
出川口仮橋の通行料に関するものです。この中で、十二ヶ村と田中村の間で起こっ
た、通行料に関する争いの様子が明らかになりました。寛政6年(1794)田中村は、諸
費用の高騰を理由に、通行料の一挙5倍の値上げを要求します。これに対し、十二ヶ
村は1割値上げで交渉しますが、話が着かず、奉行所へ訴え出ます。翌年8月、奉行
所の指導で和解が図られ、2割値上げで決着します。江戸時代には一つ一つの橋が、
たいへん重要な役割を担っていたことが分かります。
2007年11月
|