京極れきし再発見 41


  通行料5倍に値上げ そらかないまへんで!
  (今出川口仮橋の話し)



今出川口仮橋の図
(拾遺都名所図会より)

 大原古文書研究会は、大原に残されている古文書を読み解き、そこから地域の歴史 を研究するグループです。今回、大原古文書研究会では、江戸時代の今出川口仮橋 (今の出町橋)に関する15通の文書を解読されました。その報告書「今出川口仮橋一 件・古文書集」を、京極歴史探偵団にいただきましたので、そこで明らかにされた今出 川口仮橋の歴史を紹介します。

 出町(今出川口)と出町柳(柳ヶ辻)の間は、現在は出町橋と河合橋の2つの橋で結 ばれていますが、明治以前は、この位置では既に川が1つになっていて、両岸が1つの 橋で結ばれていました。これが今出川口仮橋(後に出町橋)です。ただし、江戸時代の 橋は本格的な橋ではなく、木で簡単な橋げたを組んで、板を5枚並べて渡して作った仮 橋でした(幅は約2メートル半)。このような橋ですから、毎年、大水で板が流され、その 度に再建されました。

 この橋は、若狭街道(いわゆる鯖街道)の終着点に架かり、洛北の人々がその産物 を都に売りに行き、必要な物資や糞尿(肥料)を都から運ぶために使う、大変重要な橋 でした。以前は、若狭街道沿いの十二ヶ村が共同で維持をしていたのですが、後に は、橋の西岸の田中村(今の左京区田中)に管理をまかせ、十二ヶ村は田中村に通行 料を払う形になりました(十二ヶ村は、一乗寺、修学院、松ヶ崎、高野、花園、長谷、 中、八瀬、大原、小出石、伊香立、途中です)。

 今回解読された15通の古文書は、江戸後期の、天明から寛政時代の約10年間の今 出川口仮橋の通行料に関するものです。この中で、十二ヶ村と田中村の間で起こっ た、通行料に関する争いの様子が明らかになりました。寛政6年(1794)田中村は、諸 費用の高騰を理由に、通行料の一挙5倍の値上げを要求します。これに対し、十二ヶ 村は1割値上げで交渉しますが、話が着かず、奉行所へ訴え出ます。翌年8月、奉行 所の指導で和解が図られ、2割値上げで決着します。江戸時代には一つ一つの橋が、 たいへん重要な役割を担っていたことが分かります。

2007年11月


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