京極れきし再発見 56

  本満寺の裏に残る御土居




本満寺の裏のお土居跡(出雲路神楽町)
墓地が高くなっているのが、お土居の名残
お寺の右の、帯状の竹やぶがお土居
(大正元年 南鶴山町・神楽町付近)


 御土居は、豊臣秀吉が京都の防衛のために築かせた土塁です。高さ約五メートル、 全長二十二キロに及ぶ土塁と堀で京都全体を囲みました。

 この御土居は、市街地の鴨川沿いの部分は江戸時代に撤去されいましたが、その 他の部分は300年以上たった昭和初期まで大部分が残っていて、郊外の田んぼの中 を延々と土塁が続いていました。しかし、これらは戦後の開発でほとんどが失われ、現 在は、ほんの僅かに残った部分が、国の史跡に指定されています。(京極学区では廬 山寺の墓地に残った部分が史跡の指定を受けています)。

 京極学区でも、昭和のはじめ頃まで御土居が残っていました。写真は、大正元年の 地図ですが、寺町通のお寺の裏に帯状に続く竹やぶが御土居です。同じ地図の鞍馬 口以北には、もっとはっきりと土塁が記載されています。地図から分かるように、出雲 路から出町に抜ける通り(出雲路神楽町)が、御土居の東辺(あるいは堀の跡)に当た ります。

 現在は全く跡形も残っていないのでしょうか。いいえ、一部は残っています。本満寺の 裏(墓地)の高くなっている部分が御土居の名残です。小さなお堂が立っている部分は さらに高くなっています。

2009年6月


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