明治元年(1868)11月、京都府は各町組に小学校を作ることを提案しました。明治
元年といえば、1月に鳥羽伏見の戦いがあり、東北ではまだ戊辰戦争が続いていま
す。京都府はその5月に発足しましたが、全国的にはまだ県がなく、江戸時代の藩の
ままです。京都はこのような時期から、小学校の設置に乗り出したのです。
当時の京都では、禁門の変の大火で崩れた町組織の再編が行われていて、明治2
年には、京都市街を上京と下京に分けて、66の町組(番組)が作られました。そして、
この番組に一つずつの小学校を作ることになりました。
明治2年5月の上京第二十七番組小学校(後の柳池中学)を皮切りに、この年の12
月までに64の小学校が開校します。66の番組に対して64と二つ少ないのは、上京第
二十八・二十九番組と、下京二十二・三十二番組が、共同で小学校を作ったからで
す。
その上京第二十八・二十九番組共立の小学校が、今の京極小学校です。開校した
のは、一番最後の64番目で、12月22日の創立記念日が、なんとしても年内(明治2
年)に開校しなければならなかった当時の事情を物語っています。
最初の校舎は立本寺前町(寺町今出川上る西側)に設けられましたが、間に合わせ
のものだったようで、その二年後には現在地に移ります。これら番組小学校は、町から
費用を集めて建設し、番組の自治会が運営したものです。町の人々が苦労の末、作り
上げてきた様子がうかがえます。
2009年11月
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