京都御苑の見どころ(2)



幕末・明治維新の史跡



 江戸時代は、実際の政治の世界とは隔絶されていた内裏(京都御所)や朝廷も、幕末になると激動の渦に巻き込
まれます。そして、わずか15年の間に、禁門の変や王政復古の大号令クーデターをはじめとする、様々な事件が起
こりました。今も、京都御苑の中には、それらの事件に関る史跡がたくさん残されています。



1 和宮 誕生の地 (橋本邸跡)

和宮(親子内親王)は、朝廷と幕府の融和(公武合体)
を図るため、万延元年(1860)に14代将軍 徳川家茂に
嫁ぎました。和宮は、仁孝天皇の皇女(孝明天皇の妹)
で母は橋本経子(観行院)です。弘化3年(1846年)に、
この場所にあった橋本邸で生まれ、ここで育てられまし
た。


2 祐井 (明治天皇誕生の地、中山邸跡)

明治天皇は、孝明天皇の典侍 中山慶子を母とし、嘉永
5年(1852)に中山邸で誕生しました。その中山邸跡に
残る祐井(さちのい)は、明治天皇が2才の時、周りの
井戸が涸れたため新たに掘られたもので、明治天皇の
幼名である祐宮にちなんで、祐井と名づけられました。




 
3 学習院跡

貴族の教育機関として、です天保13年(1842)に設立
されました。諸藩の陳情や建白を受け付ける窓口とした
ことから、尊皇攘夷派の公家と志士の活動拠点となりま
した。八月十八日の政変の後は、本来の教育機関に戻
され、明治元年に廃止されました。学習院跡には、黒松
の中から桜が生えた「桜松」があります。

4 猿ヶ辻 (姉小路公知 暗殺地)

御所の鬼門の守りとして、木彫りの猿がまつられている
所です。文久3年(1863)5月20日の夜、ここで姉小路
公知が暗殺されました。姉小路公知は、三条実美ととも
に朝廷内の尊皇攘夷派の中心的な存在でした。犯人は
薩摩藩の田中新兵衛と言われますが、真相不明で、暗
殺の目的も分かっていません。



 
5 中川宮邸跡

幕末の朝廷の実力者である、中川宮朝彦親王の邸跡
です。幕府よりの立場だったことから、尊皇攘夷派から
狙われ、維新後は広島に幽閉されました。後に久邇宮家
を創設しました。今の天皇陛下の曽祖父(香淳皇后の
祖父)に当たります。その邸跡には、親王の遺徳を偲ん
で貽範碑(いはんひ)が立てられています



 
6 凝華洞跡 (御花畑、新選組デビューの地)

江戸初期の後西天皇が、退位の後に住んだ御所の跡
で、別名「御花畑」と呼ばれていまいした。幕末には、京
都守護職松平容保の仮宿舎に使われました。八月十八
日の政変の際、壬生浪士組がここを警備し、これにより
新選組の名を与えられました。今は庭園の築山と松の木
が残っています。

7 蛤御門 (禁門の変激戦地)

八月十八日の政変で都を追われた長州藩は、元治元年
(1865)、天皇奪還を目指して御所に総攻撃をかけまし
た(禁門の変)。長州兵のうち天竜寺に集結した軍勢は、
この蛤御門と、一つ北の中立売門で、幕府軍(薩摩藩、
筑前藩)と激突しました。特に、蛤御門は激戦となり、柱
には当時の弾痕が残ります。



8 清水谷家の大椋 (来島又兵衛 自刃の地)

蛤御門から御苑に入ると、正面に見える椋の大木です。
禁門の変の際に、この木の下で、長州の来島又兵衛
(きじままたべえ)が戦死したと伝えられています。
来島又兵衛は、長州藩の尊皇攘夷派の指導者の1人
で猛将として知られていました。禁門の変を陣頭指揮し
ましたが、銃弾に倒れ、自刃しました。



9 鷹司邸跡 (久坂玄瑞 自刃の地)

禁門の変で堺町御門を攻撃した長州軍は、その北側の
鷹司邸に立てこもりました。幕府軍は鷹司邸に火をかけ
その火は類焼して全市を焼きました(どんどん焼け)。
鷹司邸では、敗れた久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎
など、松下村塾の英才達が自刃しました。現在は、庭石
がいくつか残っているだけです。



10 西園寺邸跡 (立命館発祥の地)

西園寺家の邸宅跡で、その守り神である妙音堂が白雲
神社と名を変えて残っています。西園寺公望は、明治2
年に邸内に私塾「立命館」を開きますが、政治運動を警
戒した京都府庁の命令で7ヶ月で閉鎖されました。その
名は、当時家臣だった中川小十郎が後に創立した「立命
館大学」に受け継がれました。