出町こだわりガイド
出町観光ページ独自の視点で、見どころを紹介します



相国寺
そうこくじ
(しょうこくじ)

萬年山 相國承天禅寺  臨済宗 相国寺派 本山




   
法堂(重要文化財)
方丈庭園
浴室
承天閣美術館


 相国寺は、室町幕府の3代将軍足利義満によって、将軍家の禅の修業道場と
して創建され、京都五山の第2位に位置づけられた大寺です。 室町幕府(花の
御所)の東側に隣接して建てられました。
 現在、室町幕府の跡は住宅地となって一切の痕跡を残しておらず、相国寺のみ
が室町幕府の栄華を伝えています。
 相国寺は、戦乱や失火により6度の大火災に会っています。現在は、豊臣秀頼
再建の大きな法堂(重要文化財)を残していますが、仏殿や三門が再建されない
ままで、境内の中心部は松林(般若林)となっています。
 金閣寺や銀閣寺は、相国寺の末寺であり、境内の承天閣美術館では、相国寺
及びこれらの末寺に伝わる寺宝を展観しています。

<拝観>
 法堂/方丈・庭園/浴室   建物内部、庭園は春秋に特別公開
 承天閣美術館          展示替え時期を除き開館

    くわしくは、相国寺公式ページを御覧下さい




相国寺十境
 
十境とは、禅宗寺院で禅の境地を表すために選ばれる、十の景色を言います。
相国寺の森の中や周辺に点在しています。


1 祝釐堂(経蔵)
経蔵とは、一切経(全てのお経が一揃いになったもの)を納める
建物です。現在の経蔵は、幕末の万延元年(1860)年に建てら
れたもので、桂昌院から寄進されたの一切経を納めています。


2 護国廟(八幡神社)
かつては烏丸通の方に立派な神社があって、御所八幡町の
町名が残っています。今の八幡神社は、法堂の横にあり、
小さな祠です。

3 円通閣(三門)
相国寺の三門は、火災で焼失する度に4回まで再建されてき
ましたが、江戸中期の天明の大火の後は再建されず、礎石を
残すのみとなっています。

4 大宝塔(塔)
足利義満は、東寺の五重塔の2培以上の高さのある、巨大な
七重塔を建てましたが、落雷で焼失しました。江戸初期に
後水尾天皇が三重塔を建て、その柱に自分の歯と髪を納めら
れました。その跡が後水尾天皇髪歯塚となっています。

5 洪音楼(鐘楼)
今の鐘楼は、天保14年(1843)に再建された立派な建物で、
軒下の木組が見事です。夕刻には、内部から明かりが漏れ、
鐘の音が響く様子が見られます。

6 功徳池(放生池)
7 天界橋(石橋)
石橋は、御所との境を表す意味で天界橋と名づけられたといい
ます。戦国時代の天文20年(1551)、この橋を挟んで細川氏
と三好氏の合戦(石橋の戦)があり、お寺が全焼しました。

8 龍淵水(開山塔庭園の流水)
かつて今出川という川があり、その一部です。開山塔庭園は
通常非公開ですが、今出川の跡は、鐘楼の横から総門に向
かって流れていた跡を見ることが出来ます。

9 般若林(学寮、後には松林)
当初は、僧侶達の修行の場を指したそうですが、後には境内の
森を指すようになったとのことです。現在は、北門町にある研修
施設がこの名前を継いでいます。

10 妙荘厳域(総門)
相国寺の表門で、京都御苑の今出川御門と向かい合っていま
す。禅宗寺院では、仏殿(本堂)の正面の門(勅使門)は閉ざし、
日常はその横の総門を使います。





  相国寺の不思議スポット案内

 
宗旦稲荷

千宗旦は、千利休の孫で、裏千家の初代です。当時、相
国寺に住んでいた狐が、宗旦の作法を見よう見まねで覚
えました。この狐は、時々宗旦より先回りをして、宗旦に化
けて見事なお手前を見せたといいます。また、別の言い伝
えでは、夜な夜な、宗旦に化けて人々を訪ね、お茶菓子を
食い荒らしたのですが、けっこう人々に親しまれ、みんな
知っていて相手をしたと言います。宗旦稲荷は、その宗旦
狐をまつったものと伝えられます。


 
薩摩藩士の墓 長州藩士の墓

幕末の元治元年(1865)に起こった「禁門の変(蛤御門の変)」は、前年のクーデターで
朝廷から排除された長州藩が、天皇奪還を狙って京都御所に総攻撃をかけた戦闘で
す。この時、幕府軍の主力として長州藩を撃退したのが、西郷隆盛が率いる薩摩藩兵
でした。相国寺には、禁門の変で戦った両軍の藩士のお墓があります。 

薩摩藩士の墓

禁門の変と鳥羽伏見
の戦いで戦死した薩
摩藩士72名のお墓で
ほとんどが10代20才
代の若者たちでした。
(東門の外にあります)


 
 長州藩士の墓

蛤御門の戦闘で撃た
れた長州藩士の首級
20余りを葬ったもので
すが、誰の首だったか
は分かっていません。
(公開していません)




相国寺公式ホームページ



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